「遺す」と云う考え方が好きだ。「残す」では決してない。
「遺」と云う字には、自ずと「死」の存在が見え隠れする。
遺言、遺書、遺物、の容に。
「遺す」ことに何故焦がれるのか。
ひとつにはその安定性がそうさせるのだろう。
人は無常である。水の流るゝように。思い浮かび去ること。理念と云うものでさえ時に容易に崩れ去る。事実そうであり、そうであるべきとさえ思う。
これを間違いなく止める唯一の機会。其が「死」である。
ガリレオは生し時間に言った「地球は動いている」。現代においては、科学的事実として遍く受け入れられている言葉。
拘らず、彼の生し日には、少なくとも大衆には受け入れ難かったであろう。一神教の思想下では特段にそうであることが想像に難くない。
しかし、彼は死んだ。そこで、「安定」が生じたのだ。
ここで、妄想する。ガリレオも人間である。もし、彼が拷問に耐えかねて、その意を曲げていたならどうなっただろうか。
所謂偉人としての未来は失ったかもしれない。「地動説の祖」の名声は、他の誰かのものになっていたかも知れない。
一方で、聞こえは良く無くとも、「地動説を初めて唱えた人間」としては記録は遺ったことであろう。
「著した」と言う事実が大切なのである。
その内容が認識され評価されるのが、どの時点であるかには関係がない。それはこの世界の流れによるからだ。
現代は「科学」と云うストーリーの上に成り立つように移行している。しかし、このパラダイムシフトも僅か直近約5世紀の間に進行した出来事である。
何か空前の事変により、再び「神話」や「宗教」を基礎とするストーリーがこの世界に展開されぬとも言い切れない。
「遺す」とは、見返りを求めずに唯行うと云う、人間の成せる究極の行為なのである。