エッセイ

キャラクター

キャラクターを設定する。今日のテーマはこれである。

自分に対して、相手に対して、何れにも適用すべきである。自分に適用するケース。何かを著述するケースをイメージしている。

何かを著述する場合、正に今この瞬間もであるが、これを受け取る相手がどのようなことを感んじるのかを想像している。

そうすると、客観的な視点が強くなり、これは悪いことではないのだが、自分が言いたいこと、伝えたいことがぶれてきてしまう。正に前文は良い例で、「これは悪いことではないのだが」という文節を記した際にその思考がはたらいている。客観的であることを正義とする自分とそうでない自分が一文の中で葛藤しているのである。

これは他人と会話をするときも同様である。先の例のように「言い訳の文節を挟む」のは良くない(文として美しくない)と思う。が、良くやってしまう。その理由は、それを許さないと、そもそも言葉を発することができなくなるからである。

言葉を実際に発声するまでの間には、多くの思考(分岐)があるが、私の感覚としては、この思考には終着点がない。つまり、初めの一単語を発音し始めないと、いつになっても言葉には出来ない。リアルタイムで修正を加えながら、出来るだけ齟齬のない一文を作り上げていくのだ。
また、これが文章となると、別の問題が生じてくる。文章は読み返せる。つまり、振り返って校正をすることが出来てしまうのである。こうなるともう大変である。言い訳の文節だらけの文が出来上がる事になる。

これは私の悩みであった、ということを自覚させてくれたのは、参考文献に示す『人を惹きつける技術』である。本書はとある友人の推薦を受けて読んだが、創作活動、ビジネスの他、他分野で応用が効く普遍的な内容であった。

内容の骨子を、強いて一言で表現すれば「ストーリーを描くには先にキャラクターを描くべきである」ということである。漫画、小説、映画等の創作では文字通りの適用ができる。また、ビジネス面においても、特にマーケティングの世界では「ペルソナ」とい概念が多様されるが、これはとりもなおさず「キャラクター」を同義である。

本書で対象としている、キャラクターは3人称ないし2人称の存在を対象にしていたように思う。自身が創作するモノ(3人称)に対する視点。また、創作物を見ている読者(2人称)に対する視点。ただ、私が感じたのは、これは1人称つまり自分自身にまず適用すべきであるということである。

自分自身の中には複数の正義が存在する。というか、物事は常に表裏一体であり、事象を観察するには、少なくとも2つの視点がある。表と裏。陰と陽。がある。それが自身に内在している。この状況で、物事を考えようとすると何が始まるか。内戦である。自身が呈するAという主張に、自身がBという主張をもって対抗する。更に、C、D、E、と・・・敵は多い。他人の脳(アタマ)は覗いたことがないので何とも言えないが、私は「自己内戦体質」なのであろう。

そこで思うは、何かを発信する際には「キャラクターを規定する」ことが有用なのである。
自身の中には、様々なキャラクターがいる。キリストのような「聖人」がいたり、ジャイアンのような「独裁者」がいたり、夜神月(ヤガミライト)のような「黒い賢人」がいたりする。

今この瞬間の私はどのキャラクターなのか。まあ、事実として、全てを包含する存在であるので、その中で敢えて、どのキャラクターを使うのか。これを意識的にやることが、今のように文章を書いたり、何かを創作する際に有用であると認識した。これは自身の中では結構大きな、革命的なことであると感じている。

何かを表現すれば否定されるものだ。でも、他人から否定されるのは慣れっこだ。そんなものは痛くはない(まだ痒くはあるが)。しかし、本質的な問題は、自分の意見を否定する相手が、自分自身の中に群雄割拠しているということなのである。これからは逃げられない。なぜなら、私という全てを取り纏める本艦の理念が「中立性」であるからである。

ともすれば、本艦から小舟で漕ぎ出すのが良いのだ。「自身」という、複数のキャラクターからなる、もはや何か一つの概念で規定することのできないモノを表現する方法として、自分のある部分を「キャラクター」という形で蒸留し、そのキャラクターとして創作を行う。非常に腑に落ちる。何故さっさと、この発想に至らなかったのかと自身の怠慢を呪う。

この、発想のパラダイムシフトは、大きなモノであると感じている。今、この文章は、キャラクターを製出することなく、あくまで「統合された自身」として書いている。今後、私がそのような立ち位置で何かを表現をすることは減っていくだろう。まあ、突然にはシフトできないが。確実にその方向に向かうことであろう。きっかけは、正に「このエッセイ」を書いているこの時である。

上述の実現のために、自身を敢えて分割し、皆様が少しでも「ウケる」とか「魅力的」とか「惹かれる」とか、そんな風に思って頂ける部分を精製できたら、とワクワクしている。

このワクワクを感じられるのは、あくまで「全てを統合した本艦」なのである。

 

【参考文献】
『人を惹きつける技術』小池和夫

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