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二元論より

二元論。
Wikipediaによれば「背反する二つの原理や基本的要素から構成される」概念である。
これこそ私を苦しめてきた根元であり、同時に私を成長させてきた本質でもある。これ自体が二元論である。

理由は後述で明らかになっていくのであろうが、文章を書くということをより「自由」にやりたいと思う。ここでいう「自由」は、特に「発信する場所」と「内生する思考」についてである。また、内生する「自己反論」に逆らわず、可能な限りそのままを記述してみたいと思う。これは今後共々の姿勢である。

一つ目の話題として、自身の中には確実に、対立する複数の正義がある。例えば「窃盗」というキーワードを取り上げる。当然、社会秩序や法といった観点から分析すれば、それは悪でしかない。しかし、丁度昨今のように、感染症の脅威により、否応なしに個人の安寧が犯されるシチュエーションではどうか。窃盗は盲目のうちに悪と処理されるのには議論が不足するように思う。という視点があっても然るべきである。

また、少し違う視点として、窃盗ですら、ひとつの技能として捉えることもできる。
欧州を旅行した際、とある国でスリにあった。駅の自動券売機で、スリは老婆であった。結果だけをを述べれば、私は老婆から20ユーロ札(2,000円程度)をスられたということになるのだが、私は同時に、彼女の洗練れた手口と立ち回りに感動させられた。勿論、それに気づくのは、盗られたのだと気付いてからなのだが。しかし、その技術は、所謂マジシャンと呼ばれる人たちが磨いている技術そのものであったのだ。視線及び意識の誘導・摺り替え。物理的死角の活用。正にプロの所業であった。
私は手品が好きである。上述のような技術をエンターテインメントとして昇華させた活動に感動を覚える。だからこそ同時に、ステージに立たずに駅の券売機に屯する老婆に、その線の洗練された技術を見せつけられたことに感動したのである。

次の話題として考えるのは、発信する場所や形式についてである。
現代において、文章という形式で表現するとはどういうことなのか。
ひとつの視点としては、学術的発信である。論文とは際たるもので、当然のこと、その内容には具体的エビデンスが要求される。私個人としては、過去の経験としてどうしてもこの形式に引き寄せられる。
一方で、そのような形式に捕われること無く著述される「随筆」(現代的にいえば「ブログ」)というものも存在する。
随筆といった、云うなれば人が思うこと(いわば仮定)をそのまま記述するという形式は、現代を席巻する科学の文脈からいえばナンセンスであるのかもしれない。根拠が不確かであるからである。
一方で、考えなくてはならないのは、科学(論理)の世界は、感情や直感(時に第6感と表現したりするものに近しいもの)といった人間(生物)が本能的に持つ重要なファクターを包含仕切れていないことである。

この世界は不確かなもので構成されている。論理もその根拠は全てを網羅することは難しい。まあ、正に、これこそが科学の根源となる立場なのであるが。しかし、科学を手に入れた人類にとってこう考えざるを得ない。もう不可逆的なことである。

しかし、科学の先端に身を置いた時分に知ったのは、結局科学も目指すところが先にあり、そこに向かうということである。あくまでこれは経済性が絡む科学の現場での話をしているが。経済性の絡まない科学など世界に幾程実現しているのであろうか。

そのようなことを総合的に考える時、今、私が取り組むことは「ストーリーを語る」ことなのではないかと思っている。
科学の第一線は私にとっては疲れる。それによって得られる結果も狭い。と感じてしまう。私のエゴとしてだが、出来るだけ広く物事をみたいからであるのだろう。

当然だが、この世界は広く深い。人類は知覚できている問題すら解決できていないことに加え、未だ知覚していないことの存在をも知覚している。

このような身に余り壮大過ぎることを思い描く、しがない個である。

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